
「KИНO」の歴史を大雑把に纏めてみる。後々ソビエト連邦の歴史や、その政治体制、どう「KИНO」の音楽に影響したかも調べるつもりですが、今回は政治よりも、ビクトルの生い立ち、「KИНO」の生まれた軌跡を追ってみる。
ー1962年6月21日レーニングラードにて「ビクトル ツォイ」(Виктор Цой)は教師ヴァレンティーナ ヴァシリイヴナ(母)と技師ロバート マキシモビッチ(父)との間に生まれる。
ー1969年 ビクトル(7歳)は母の勤める学校に通いだす。
ー1974年 (12歳)アート学校に通いだす。そこでマキシム パッショフ率いる「No.6区」(PALATA No.6)は結成され、3年間在籍。
ー1979年 ビクトル(17歳)は成績不振で学校を追い出され、工場で働きだす。夜間学校に入る。
ー1981年、(19歳)「ガーリン と ギッベルボロイード」というバンドをビクトルはアレクシー リビン、オルゲ バリンスキーと共に結成。 しかし間もなくオルゲ バリンスキーは脱退。 そしてバンド名を「キノ」(Кино) に改名。
ー1982年春 (20歳)ファーストアルバム「45」をリリース。ビクトル将来の嫁マリアーナと出会う。ボリス グレビンスキーコフの「アクアリウム」と共にレーニングラードで初コンサート。この年ビクトルは学校を卒業、プスキンにて修復工事の仕事を始める。秋庭師を始める。モスクワで初コンサートを行う。
ー1983年(21歳)2月ビクトルと喧嘩し、アレクシー リビンは「キノ」を去る。夏、アレクセイ ヴィシュニーによってデモアルバム「46」が書かれる。
ー1984年(22歳)春レーニングラードのロッククラブにて2度目のフェスティバルを催す。
後半期、アンドレイ トロピロのスタジオで「アクアリウム」のミュージシャンと共に「カムチャカの経営者」(Начальник Камчатки)をリリース。 二代目の「キノ」がビクトル(ギターとボーカル)、ユーリ カスパルヤン(ギターとボーカル)、ジョージイ グリヤノフ(ドラムとボーカル)、アレキサンダー ティトフ(ベースとボーカル)によって再結成された。アレキサンダー ティトフは元「アクアリウム」のメンバー。しかし、直ぐにイゴール ティッコミロフと交代させられる。
ー1985年2月 ビクトル(23歳)、マリアーナと結婚。その春「キノ」は3度目のレーニングラードでのフェステェバルに優勝。8月26日ビクトルとマリアーナの間にアレキサンダー(サーシャ)が生まれる。 後半期、アンドレイ トロピロとアレクシー ヴィシュニーのスタジオで「夜」(Ночь)と「これは愛ではない」(Это Не Любовь)を制作。
「これは愛ではない」をリリース。
ー1986年(24歳)一月「夜」をリリース。春、4度目のレーニングラードフェスティバルで最優秀歌詞賞を貰う。(七月にこのサイトの管理人が生まれる。) 夏、キエフにて「休暇の最後」を撮る。「赤い波」をリリース、そしてビクトルは未知の土地「カムチャカ」で働きだす。
この年の暮れ、アレクシー ウチテルの映画「ロック」と「アッサ」に出演。「最後のヒーロー」(Последний Герой )にも出演。
ー1987年(25歳)春、ラシド ヌグマノフの「針」に主演として出演。
ー1988年(26歳)アルバム「血液型」(Группа Крови)リリース。「太陽と言う名の星」(Группа Крови)制作、リリース。
ー1989年(27歳)夏 ビクトルとユーリカスパルヤンはジョアナ スティングレイに会いにアメリカを訪れる。オデッサのフェスティバル「ゾロトイ デューク」に参加。フランスにて「最後のヒーロー」をリリース。
ー1990年(28歳)春、ビクトル 日本を訪れる。6月24日モスクハのルッツニキにて最後のコンサート。「黒のアルバム」(Черный Альбом)がリリースされる。このアルバムはビクトルの死後名付けられた。8月15日12時28分 ビクトル ロバートヴィッチ ツォイはラトビアのリガ近くで交通事故死。8月19日レーニングラードにて埋められる。
ー1996年「キノ」の音楽はリマスターされる。
ー2000年 最近のロシアンアーティストにより、感謝として「KINOprobi」を制作。デジタライズされたCD「この世の話」(Istoriya Etogo Mira)「悲哀」(pechal)をリリース。
ー2003年 6枚のCDが発売される。初期の頃のバンド「 ガーリン と ギッベルボロイード」、2枚のコンサートアルバム、映画に使われた曲など。
- 2007/01/13(土) 01:23:58|
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